落語

落語

落語是日本的傳統曲藝形式之一。無論是表演形式還是內容,落語都與中國的傳統單口相聲相似。據說,落語的不少段子和中國淵源甚深,有的直接取自中國明末作家馮夢龍所編的《笑府》。落語成立までの流れは明確ではなく、「話・噺・咄・囃・談・語」のいずれも「はなし」と読まれるなど日常的に行われる動作とも密接であり、また「話芸」という語の成立自體も明治時代に入ってからのことで、どこからが芸能と呼べるものなのか難しい。

落語詳解

概述

不管是表演方式還是表演內容,落語都與中國的單口相聲相似,“大銀座落語祭”實際就是相聲節。日語的“落”是指抖包袱,落語最精彩之處就在於段子最後的“落”。表演者身著傳統和服,手持摺扇,跪坐於蒲團之上,依靠幽默詼諧的笑話和惟妙惟肖的表演製造笑料。日本關根默庵所著的《江戶之落語》曾這樣描述落語的魅力:“一碗白湯,一柄摺扇,三寸舌根輕動,則種種世態人情,入耳觸目,感興覺快,落語之力誠可與浴後的茗香熏煙等也。”

特點

落語發展到今日,可分為滑稽說、人情說、戲劇說和怪談說4類。滑稽說是通過 表演小笑話,最後抖出包袱逗觀眾發笑,狹義的落語指的就是滑稽說。人情說則反映一些世間的人情冷暖,有時令人苦笑,有時令人落淚。戲劇說來自於歌舞伎等其他傳統藝術,又說又唱,有時還會使用大一些的道具。怪談說場內昏暗,表演者有時

落語落語
會模擬鬼怪,諷刺人世間的醜惡。落語的種類雖然不少,但是日本落語界一直有著“修煉500段”的說法,就是說,落語只有500個左右的經典段子,多年以來反覆上演。現代段子雖然經常出現,但很少有能作為經典保留下來的。

發展

日本落語來源於中國。日本著名落語家三游亭元樂在《讀論語之論語說》中明確闡述:中國早在漢代就有類似現在的單口相聲的表演方式,江戶時代的段子大多來自一本從中國傳入的名為《笑府》(可能是日文譯本的名稱)的笑話集,後來又陸續受到《宮廷野史》和《聊齋志異》等文學作品的影響,落語藝術不斷繁榮。

在接受記者採訪時,林家一平介紹,日本落語最初只是說笑話,以後逐漸有人在路旁設肆賣藝,轉而定期登台,於是表演者不只一個人,故事也越來越冗長。1744年,落語祖師露野五郎兵衛在京都首先表演“街頭雜話”,開啟了日本落語的先河。50年後,落語藝術移師江戶(現在的東京)。1798年,東京的寺院裡出現了第一家專門表演落語的場所———“寄席”,落語家三笑亭歌樂開始在“寄席”把落語介紹給普通民眾。周作人先生在日期間所住的本鄉西片町街盡頭的鈴木亭正是“寄席”。他曾見柳家小官升高座,儼然如村塾師,徐徐陳說,如講《論語》,聽者則忍俊不禁。落語藝術在19世紀迎來了兩次繁榮期,最繁榮時曾出現了172家“寄席”。

進入20世紀,落語依然是日本人喜愛的大眾藝術,然而60年代,被落語家們稱為“最大的敵人”的電影出現,落語開始走向衰落。一平的父親林家三平借鑑中國的單口相聲,使用通俗易懂的現代日語改變了落語的表現形式,“寄席”又迎來了短暫的繁榮。進入21世紀,隨著各種形式的新娛樂形式不斷出現,落語再次走向衰退,許多落語家甚至放棄祖業,改投別行。

漫才

除了落語,笑的藝術形式還有漫才(類似對口相聲)和做笑(類似小品)。現在只有做笑依然火暴,落語只有在日本廣播協會(NHK)深夜的串場節目中才會出現。去年,由長瀨智也和岡田準一共同主演的《虎與龍》開始播出,這是一部反映當代落語家的電視劇。兩人每集都要表演一段落語,一時間,落語重新流行起來。林家表示,今年光顧“大銀座落語祭”的年輕人就比去年多了,落語家還需要繼續用笑聲爭取更多的觀眾。

表演片斷

落語表演片斷一

在“岩松看日本”中有一段落語的表演描述:

同期:白岩松00:53:34:00

你看我背後就位於大坂的一個相聲表演的這種場所,規模不算很大,但是叫相聲,那是咱中國人的說法,在日本應該這種形式叫落語或漫才,落語是單口象聲,漫才是兩個人來進行表演的。今天我們就會聽到一段單口的。

同期:落語師桂三若

甲:“昨天傍晚,西邊的米鋪里進了賊。聽說了嗎?”

00:06:28

乙:“等等!西邊沒有米鋪啊!”

甲:“啊?是嗎?啊,對對對。是東邊的。”

乙:“東邊也沒有啊!”

甲:“那就是南面的。”

乙:“沒有!”

甲:“北邊。”

乙:“都說過啦!沒有!”

甲:“(自言自語:難道這裡的賊都不吃米嗎?)都沒有嗎?

解說:在表演形式和內容上,落語確實和咱們的單口相聲很相像。落語表演的場地並不大,在劇場前方的小舞台上擺著一個小軟墊子,落語師就跪坐在上面表演。雖說落語師表演時都會穿上非常正式的和服,可他們說的卻都是地地道道的民間大白話。如果說和中國單口相聲有什麼不同的話,落語可能更像獨角戲或者是單人小品,因為落語除了嘴皮子的功夫,更注重用滑稽的表情和誇張的動作來表現生活,為了讓演出更出彩兒,許多落語師還會再拿出摺扇和手帕來當道具。

落語師:林家花丸

落語表演片段二

解說:落語表演的內容大都是老百姓日常生活里家長里短的小故事,如果能經常聽聽落語,對日本的風俗民情也就能了解得差不多了。日本的落語都是通過師傅帶徒弟的方式口口相傳的,通常學落語的人要經過十年的苦學才能成長為落語師,學徒出師以後,再和演出公司簽約,然後,就要靠演出來維持生計了。

同期:白岩松:這是不是一個掙錢很多的職業?

00:58:06:00

紅衣日本人:基本上最初級的表演者說一段15分鐘的落語的話,收入是500日元,如果扣除稅的話,是450日元。如果踏踏實實地乾,還是基本能維持生活的。而且現在我是獨身,就我來說,靠這些收入,基本能滿足一個人的生活。

解說:落語起源於300多年前的江戶時期。據日本落語家介紹,當時的段子大多來自一本從中國傳入的名為《笑府》的笑話集, 後來經過不斷發展,落語才演變成為現在這個樣子。

同期:藍衣落語師表演片段

解說:剛剛看到的落語表演是屬於比較傳統的落語演出方式,然而,隨著落語進入到21世紀,面對眾多現代傳播方式,尤其是電視對的衝擊,傳統的落語演出方式招架不住,漸漸衰敗了下去,為了讓落語繼續發展下去,許多落語師開始嘗試著對落語進行各種改良。

解說:為了確保讓每一批觀眾都能聽到他們喜歡的段子,落語師們一般在演出的開頭才會根據到場觀眾的情況臨時決定說什麼段子,在演出過程中,也會根據觀眾的情緒反映隨時調整自己的表達方式。另外,過去的落語表演是不用麥克風的,現在,為了讓觀眾聽得更清楚,落語表演也用上了麥克風。為了推進落語的發展,還有一批落語師直接走上了電視進行表演。這位落語師 桂 三若 就經常在電視上演出,現在已經是日本落語界的一個小電視明星了。

01:17:36:00

白岩松:落語在大坂的這200多人,包括在東京的600多人的表演者,在這個行當裡頭是否很安心?他們會不會一方面在這裡演出,一方面去上電視,去拍戲?或者去利用自己通過落語獲得的知名度,去乾一些其它的掙錢的事情?

剪01:18:16:00

近幾大學 客座講師 落語研究專家 古川綾子:越是有名的表演者,參與的電視節目越多,不過基本沒有同時從事其它工作的現象。如果有的話,也是一些年輕表演者。一般經過了十年學習之後開始表演的藝術家們,是不會同時從事其它工作的。

解說:然而許多更為傳統的落語師還是覺得落語並不適合在電視上演出。

01:25:06:00

白岩松:從你現在的演出的角度來說,是喜歡在這樣一個小環境當中來演出呢?還是喜歡到一個更大的場面,或者說是到電視上去給人講?

01:25:20:00

落語師 林家花丸:我認為還是與觀眾離得近一些好。01:25:33:00

可以順便觀察觀眾的反應,通過觀眾們的表情和發笑的程度來調整當天的表演。所以我認為,與在離觀眾很遠的地方表演,甚至是上電視,在對面沒有觀眾的情況下表演相比,還是在小房間表演效果好。

解說:儘管許多落語師認為源於劇場的落語最後還應該回歸到劇場,但是在21世紀的今天,電視對落語文化傳播的影響力還是不容忽視的。

同期:00:56:45:00

落語師 桂三若:在前一陣,日本的一個叫“TOKIO”的很受歡迎的偶像組合,主演了一部以“落語”為題材的電視劇,受到了很大的歡迎。從那之後,先是在東京興起了落語熱,之後影響到大坂,人們開始覺得說落語也是一件很時尚的事情。

00:57:02:00

從那以後,人們逐漸意識到原來日本的傳統文化也是相當不錯的。

解說:我們還了解到,2005年,日本還製作了一部以落語為題材的卡通片《落語天女》,卡通片播出之後,受到了不少日本少年兒童的喜愛,許多小朋友們也因為這部卡通片對落語漸漸有了了解。

另外,日本有關政府部門也對落語發展做了許多工作。您能猜出這一場落語表演的票價是多少嗎?

同期:01:08:37:00

白岩松:剪演出的票價是折合人民幣25塊錢。這在日本這個高物價的國家裡頭,這是一個驚人的低物價,而且老人和孩子還可以更優惠。那之所以能這么便宜,恐怕跟另外的一個因素有關,你看在我的身後像是一個博物館一樣的這種場所,所有跟漫才和跟落語有關的這種史實的資料,和歷史發展的這種進程都被收錄其中。而且這個演出的場所和這樣的一個展覽,都是由大坂市政府來資建立的,它才可以擁有一個便宜的票價。

解說:在這個資料館裡,人們可以免費查閱各種落語的影像資料。為了吸引更多年輕人的目光,許多落語師的形象還被製作成了卡通玩具形象。

01:12:57:00

近幾大學 客座講師 落語研究專家 古川綾子:在50年前,在大坂從事落語表演的人大概只有20人左右,而現在已經增加到200多人,所以可以說現在比50年前還要興盛吧!

01:22:19:00

白岩松:在語言落下的時候,現場要有效果,這就是“落語”這兩個字的由來,有點像中國相聲里的“包袱”,你看剛才的這個現場的效果還是不錯的,散場了。今天是周末的原因,來的人還算比較多。但是對於落語這個有著300多年發展歷史的傳統藝術形式來說,今天人即使再多,跟它輝煌的時候相比,恐怕也沒法比。

01:22:44:00

白岩松:顯然,落語和漫才以及歌舞伎,還有能劇等等一樣,都要在急劇變化的時代裡頭,尋找它繼續的生存空間。

日語落語

[落語]

「落語(らくご)」は「寄席」「笑點」などの語とともによく知られており、世代によっては、落語と共に人生・青春を歩んだなどと言い切ってしまう人もいるほどの人気がある。講談・漫才・浪曲(浪花節)などと共に「演芸」の1つとして、伝統的な話芸として扱われているが、これらの話芸の中でも特に落語は不動の人気を夸り、カラーテレビ時代から45年余り続いている落語番組「笑點」は、歴代3位の長壽番組だという。笑いの芸能として娯楽の王道を歩んできた落語を本項で紐解いてゆくが、落語愛好者でも読める內容になるよう掘り下げて進めてみたい。

まず「落語」という語の成立であるが、成立當初、本來は落語家が行う演目(ネタ)のうち滑稽物を中心として落ち(サゲ)を持つものを「落し咄(おとしばなし)」と呼び、それ以外は「話・噺・咄(はなし)」などと呼ばれていた。落語の表記は、江戸時代の18世紀後半に刊行された「新作落語徳治伝」で初見され、落語(らくご)と呼ばれるようになるのは明治期以降のことである。必ず落ちがあることから落し咄と名が付き、落語に転化したというが、落語演目には落ちのない人情噺・芝居噺などもあり、現在は全ての演目の総稱となっている。ちなみに演者は「落語家」とも「噺家」とも呼ばれており、落語が幅広く浸透していた江戸時代當時の名稱の名殘が見られる。

落語家(噺家)は、各々の落語家のテーマソングである「出囃子(でばやし)」という三味線・太鼓などの下座音楽に乗って著物姿で舞台に登場し、「高座(こうざ)」と呼ばれる落語舞台の、真中の座布団に座って話を始める。座ったまま、基本的には身振り(仕草)と語り(言葉)の技巧のみで、様々な登場人物(子供・町人・武士など)を演じ分けるシンプルな芸で、衣裝・道具・音曲を極力用いずに披露する素の芸であり、それゆえに観眾を魅了する高度な技芸を要すると言われている。同じく笑いを主眼とし、演者が聴眾に語りかける形式の「漫談」との違いは、登場人物同士の対話を中心として話が進行する點にある。通常「枕(前振りとして語られる小話)」の次に「地」と呼ばれる場面設定や心理・狀況描寫などを說明する部分が入り、続いて本筋として大半を占める対話部分で話が構成される。少し解かりづらいので、落語の話の構成要素について少し觸れておくことにする。

「枕(マクラ)」とは、導入部で語られる世間噺・時事問題や、本題と接點のある面白い小話のことで、當時の風習・言葉を予備知識として事前に說明するなどして本筋を解かり易くしたり、落ちへの伏線をはるなど演者側が話を進め易くする効果がある。この小話で笑わせてリラックスさせ、話に惹きつけるなどの効果もあり、演目や噺家によっては一定の様式の枕もあるため、通になると枕で本題が分かるという。絕対に語らねばならないものではないので、いきなり本題に入る噺家もいるし、古くから有名な「まくら噺」というものもあり、この部分だけで一席分の語りになるものもある。

「地」とは、場面設定・心理描寫・狀況描寫などを必要最小限で說明する部分のことであり、登場人物の會話でない部分のこと。會話調の対話部分の語りより地の部分が多く、講談に近い語り口調の地で話が展開してゆくものを特に「地噺」と呼ぶ。「人情噺」などに多い。

「擽り(クスグリ)」とは、本來の話の筋にある笑いではなく、演者によって入れ込まれる笑いのことで、地口(駄灑落)・內輪ネタなどで観客の笑いを取ること。特に歌舞伎や古典落語などの伝統芸能では時折見られるものであるが、挿入する場合には、一般的に話の筋から大きく外れないものが好まれる。

「落ち(サゲ)」とは、落語の締めくくりの一言であり、落し噺で特に重要なもの。よく考えないと理解できない落ち・発音が似ている地口(駄灑落)の落ちなど多様な種類があるが、いずれもこの常套句による笑いで結びとなる。「考え―」「逆さ―」「仕草―」「地口―」「仕込み―」「途端―」「ぶっつけ―」「間抜け―」「見立て―」「にわか―」「とんとん―」「梯子―」「回り―」などに分類されるが、十分な分類法がなく、現在では従來の分類で當てはまらないものや別の分類に入れた方が良いものも出てきたという。口演時間の制約や、通じない落ちが出て來たことなどにより、最近は落ちまで披露せず終わることも多く、人情噺・芝居噺などの大半は落ちがない。

話の構成要素を挙げてみたが、次に物理的な、目に見える要素も挙げてみることにする。演出の代表的なものは小道具であるが、手拭い・扇子のみで全てを表現し、例えば、扇子はきせる・箸・筆・杯・刀・釣竿・手紙等、手拭いは本・財布・證文などに見立てられる。扇子は「かぜ」、手拭いは「まんだら」、羽織は「だるま」と、符牒(隠語)を使って呼ばれている。二つ目升進後、自分の名前入りの手拭いを作ることができ、真打升進後は、更に自分の名前入りの扇子を作ることができる。江戸落語と上方落語では小道具や慣習に違いがあり、上方落語では見台・張り扇・小拍子など、講談の演出と同じような小道具も用いられる。小道具以外の演出要素として衣裝・照明・効果音などが挙げられるが、基本的に噺家は比較的シンプルな柄、又は無地の和服を著用して舞台に挙がり、照明や効果音は用いない。落語は素の話芸であり、観眾に対しても芸に集中して貰えるよう、話以外の余計な音や物を極力避けるものであるが、地域・演目などにより最中に音曲や効果音が使用される場合がある。上方落語に用いられる下座音楽である「はめもの」がそれである。芝居噺に用いられる「書割」「ツケ」などは例外として慣習的に使用されている。元來、江戸落語には名ビラ(演者の名を記したもの)やメクリ(名ビラを掲げる台)、出囃子も無かったが、後になって上方落語から移入され常用されるようになった。元はかなり簡素な舞台構成・演出であったと思われ、現在も同じ流れを継ぎシンプルであることには変わりなく、しかし各々最小限の所作に様々な意味を持たせているので、素人目に解りづらい演出も多い。例えば二つ目升進以後は紋付羽織の著用が許されるが、一瞬で羽織を脫ぐ脫ぎ方・タイミング等にも約束事があり、枕から本題に移行する合図・次の演者(噺家)の準備が出來た合図を擔ったり、羽織があれば大名や殿様、羽織が無ければ商人役であるなど何らの意味合いを有するとされる。

そもそも落語という芸の根乾を成す要素は、先に述べたように言葉(口頭語)と仕草(座って行われる最小限)の2つしかないので、この2つを少し掘り下げてみたい。

言葉古典落語の場合は、大半が口伝で継承されてきた特定の口演台本があり、噺家はこれを元に稽古し口演する。先に述べたが說明的な「地」の部分と會話文で構成される本題は、主にテンポの良い會話で話を進め、最小限の地で表現できない描寫(細かい心理描寫など)は仕草で補われる。登場人物を全て一人で演じねばならないため、聲の調子・言葉遣い・話し振りなどの工夫により演じ分けられ、これらが綯い交ぜの狀態であっても聴眾は不自然に感じないという。

仕草言葉の全てに仕草が伴われるのではなく、言葉で表現しきれない部分にだけ次のような仕草が付される。

小道具を箸に見立て、何かを「食べる」動作は落語の代表的な仕草である。同様に飲む・書く・歩く・走る・著るなど人物の行動を座ったまま表現する。要所で人物の「表情」を強調したり真似たりするもの、登場人物を解り易く分けるため上位・下位の人物の會話を上手・下手への「視線」「目振り」で表すもの、また「視線」「指差し」で虛空に場所・物を演出する場合もある。いずれにしろ落語舞台で小道具や演者の有する空間に制限があり、演者の話術と、座布団上の制限された動きだけでは観眾の想像力に負う部分も大きいが、それを促す臨場感を有する演出が非常に重要であるといわれる。

ここで、何度か話に出てきた「江戸落語」「上方落語」の違いについて觸れておこうと思うが、いずれも素人の筆者なので、一般的に言われる違いを挙げてみることにする。語の通り「江戸落語」は江戸で誕生・発展したお座敷芸を起源とし、「上方落語」は上方(京坂神)で誕生・発展した大道芸を起源とすると言われている。端的に言えば、じっくりと名人芸を聞かせる粋で靜的な話芸が「江戸落語」、派手で目立つ仕草を伴って笑いを追求する動的な話芸が「上方落語」と言えるかもしれない。近年では、2007年にNHK朝の連続テレビ小說「ちりとてちん」で上方落語を采り上げたので、違いについてご存知の方も多いかもしれない。

上方落語の特徴は、上方弁(関西弁)でコッテリとして言葉數も多く、上方落語獨特の「ハメモノ」という音楽が入り、賑やかで入念な演出とともに可笑しさを追求する。戸外で観眾を集め、惹きつけるために小道具・鳴り物も用いられ、笑いで観眾を喜ばせることを重視するサービス満點の內容で継承されてきた。観眾とのスタンスも江戸落語と比べて対話中心であり、観眾の反応を大切にする芸能として育まれてきた。故に江戸落語に見られるような芝居噺や人情噺などのジャンルが存在せず、寄席の雰囲気やお客様のウケなど、江戸落語とは今でも違うという。上方落語の方が演目數が多く、江戸に移入された演目も多く、起源も、時期的には上方の方が早かったという。

江戸落語の特徴は、歯切れ良い江戸弁で、無駄な言葉を省いた洗鍊された話芸としての面白さを追求する、軽妙灑脫な芸である。上方にはない人情噺が特徴的であるため、人情噺の感動・感銘を呼ぶ系統と、笑いを追求する系統との2つが混在しているが、上方に比べて一方通行で、観眾とのスタンスは舞台の上と下ではっきりとした境界線を有する。東京落語とも呼ばれ、座布団と湯呑みのみが舞台裝置であり、特に囃子が用いられるものは「音曲噺」という1つのジャンルになっている。上方から移入された演目が多いが、そのまま同じ內容・演目名・オチではなく、江戸の寄席の雰囲気に合わせて変えられたものが多い。

次に、落語という話芸の起源について觸れてみたい。落語成立までの流れは明確ではなく、「話・噺・咄・囃・談・語」のいずれも「はなし」と読まれるなど日常的に行われる動作とも密接であり、また「話芸」という語の成立自體も明治時代に入ってからのことで、どこからが芸能と呼べるものなのか難しい。これは他の話芸でも同じであるが、話芸を生業とした職掌の歴史に限定して遡ると、古くは上代の「風土記」の頃、各地の說話を口伝した語部(かたりべ)に始まり、室町時代に誕生した近侍の雑役・芸能僧である同朋眾(どうぼうしゅう)を経て、戦國時代の武士役職である御伽眾(おとぎしゅう)・御咄眾(おはなししゅう)に及ぶ。芸能として見るならば、高座に座して巧妙な話の演出をする現在の形式は、平安時代、仏教の說教(說経)師が創造し、継承・発展させたものとされているが、今の落語の直接的な起源は、一般的に戦國時代から江戸末期、主君に近侍して話し相手となった武士役職である「御伽眾(おとぎしゅう)」「御咄眾(おはなししゅう)」にあると言われ、多くの戦國大名が御伽眾を置き、當初は戦陣の合間の慰め役として武辺話などを面白く語るものであった。次第に領國経営など役立つ知識を有する古老・浪人などの任務となり、更に江戸中期以降の天下泰平と世には、大名の幇間のような存在になった。武家出身の御伽眾の流れが講談師となり、町人出身の御伽眾の流れが落語家になったとも言われている。その中に「頓知者」と呼ばれる人々がおり、その代表的人物としては、1628年に最古の噺本である「醒睡笑」を著した、誓願寺の安楽庵策伝が挙げられ、彼らの滑稽話が落語の祖型であると言われている。この著書には「子ほめ」「牛ほめ」など現在でも演じられている原話も収められており、全部で千以上の小咄が収錄されているという。

その後17世紀後半、ほぼ同時期に3人の人物が落語の祖として名を殘している。京都では、露の五郎兵衛が四條河原・北野天満宮などで「辻談義(辻說法)」を行い活躍し、職業落語家の祖と言われている。大坂では米沢彥八が出て人気を博し、生玉社境內を本拠地として辻噺を盛んに行い、名古屋でも公演をするなど広く知れ渡った。「軽口」「軽口噺」と呼ばれ、「仕形物真似(しかたものまね)」を得意として派手な演出で有名で、また初代の彥八が「壽限無」の原話を作ったと言われ、大坂落語の祖と呼ばれている。次の2代目・米沢彥八も名高く、落語界に名を殘している。同時期に大坂出身の鹿野武左衛門が、江戸の芝居小屋や風呂屋で「座敷仕方咄(ざしきしかたばなし)」を始め、身振り・手振り・表情を交えて口演する現在の落語の祖形を作ったことから、江戸落語の祖とも呼ばれている。

更に18世紀後半、狂詩・狂文が盛んとなり、上方では雑俳・仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始め、白鯉館卯雲という狂歌師が江戸に伝えて江戸小咄が誕生、「小咄」「落とし咄」と呼ばれる時代である。上方で1770年代、江戸で1786年に烏亭焉馬(うていえんば)らにより「咄の會」が始められ、初代三笑亭可楽・初代三游亭円生が登場する基盤を築いた。1798年、岡本萬作と初代三笑亭可楽が江戸で各々の寄席を開いた後に寄席の數が急増し、天保の改革によって一時は寄席の數が120軒から15軒に衰微するも、直ぐに再興し、落語の興隆期を迎える。そんな中、幕末~明治期に活躍した「三游亭圓朝(さんゆうていえんちょう)」は「芝居噺」で大人気を博し、歴史的名人として現在でも知られ、中興の祖とも呼ばれている。圓朝は時代に即した落語を口演し、自作自演の「怪談噺」や、取材に基いた「実錄人情噺」など獨自の題材を創出し、落語の新たな道を開拓した。この頃、日本語速記術が誕生し、圓朝の高座の速記本は當時の文學や新聞で大人気となり、特に文芸における言文一致の台頭を促すなど大きな影響を與えたという。1917年、柳派・三游派が合併し、「東京寄席演芸株式會社」「三游柳連睦會(睦會)」を設立し、更に1923年には「睦會」と「會社」が合併し「東京落語協會(現・落語協會)」を設立した。大學サークルの落語研究會である「落研(おちけん)」が東京大學・早稲田大學などで誕生するのは昭和20年代の頃のことである。

こうして落語の歴史を振り返ると、創始から何百年もの間、男性だけの専売特許職であり、女性の參入が皆無であった。日本の伝統芸能では、同じように男性によって培われてきたものが多いのだが、20年位前から、女性落語入門者も見られるようになり、現在では東京・大坂で10名余りの女性落語家が活躍しているというから喜ばしい限りである。

寄席や演芸場(ホールともいう)の興行で演じるプロの落語家(職業的噺家)として名が挙がる人は大勢おり、現在、プロの落語家は東西合わせ600人以上いるのだが、落語家プロ第1號は、現・JR上野駅近辺で寄席興行を行った三笑亭可楽とされている。昭和初期に誕生した「東京落語協會(現・落語協會)」から組織が分化しており、落語協會(三游亭円歌會長)、落語芸術協會(桂歌丸會長)、立川流、三游亭円楽一門、上方落語協會(桂三枝會長)と所屬組織が幾つも並立しているのが現狀である。またプロでも興行収入の歩合(割)だけでは生計が成り立たず、旦那・お旦などスポンサーからの小遣い、妻の賃労働収入、座敷(酒席)での餘興収入などにも頼る狀態であり、副業・內職・アルバイトなど収入源・額に相場は無く、個々により様々のようである。

さて、前述の歴史の項にもいくつか名が挙がっているが、落語の種類について最後に觸れることにしたい。

「古典落語」江戸~明治期頃までに原型が成立し、戦前までに演出が確立した演目のこと。更に以下のように分類される。

「落とし噺」

面白可笑しい滑稽噺を中心とし、噺の最後に灑落や語呂合わせなどの落ちで面白く終わるもの。「牛ほめ」「饅頭こわい」「代り目」など。

「人情噺」登場人物の心理、世情、人情の機微ををリアルに描くことを目的とし、親子愛・夫婦の情愛・師弟愛・男女悲戀などの情愛を描いたもので、涙を誘う場面はあっても落ちはなく、笑いが主體ではない類。多くは長編作品で続きものとなり、かつては主任(トリ)の噺家が10日間興行で連続して口演したそうだが、區切りのいい一部を取り出して現在は演じられている。「芝浜」「文七元結」「子別れ」など。

「怪談噺」簡単に言えば幽霊やお化けが出てくる類で、主に夏に演じられ、幽霊の面や鳴り物などの演出をすることもある。「真景累ヶ淵」「牡丹燈籠」等が有名で、人情噺同様、長編なので數日掛けて口演される。途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている場合が多い。

「芝居噺」芝居(歌舞伎)と同様に書割・音曲を用い、演者が立って見得を切ったりするもの。芝居を題材にし、役者の聲色などを真似したり、パロディにしたりする類で、全體として「落とし噺」と同じ構成で、要所に芝居風の台詞廻しが混じる。

「廓噺」游郭の游女と男たちが繰り広げる悲喜劇を取り扱った一連の噺。上方では「茶屋噺」と呼ばれている。「明烏」「居殘り佐平次」「品川心中」など。

「音曲噺」芝居噺に含められるが、大げさな所作は用いず、音曲を利用して話が展開されるもの。上方落語では噺の途中に「はめもの」という下座音楽が用いられるので、音曲噺という演目を立てるのは江戸落語に限られる。

「新作落語」世情に機敏に応じた時事的作品、風刺性の濃い作品が多い。多くの演者によって演じられる(桂米朝作「一文笛」など)作品も少なくないが、作者・初演者のみのネタとして扱われ、斯界全體の共通財產と呼べぬものが多い。

「前座噺」単純で短く、基礎的技術を養うのに適した演目で、前座が最初に習い覚えたり、前座が口慣らし・口捌きに口演するもの。二つ目・真打が口演することもあるが、比較的簡単な軽い話とみなされ、通常トリの演目として披露されることはない。しかし上方では前座噺として長編の「旅ネタ」を行うことが多く、どこで區切っても別の演者が続けられるようにできているためだとされる。

「大ネタ」大作や人情噺などの中で特に難易度の高い作品の俗稱。「らくだ」「地獄八景亡者戱」など。

総論

落語は親しみやすい大眾芸能として大人気を博したとは言え、現代「笑い」の芸能と言えば「漫才」の方が身近であり、若者世代には親しみやすい感がある。一昔前からは想像もつかないほど、テレビの娯楽番組が増えたように思う。「バラエティ番組」と言えば、誰かしら漫才師が司會・ゲストなどで出演している一方、落語家はバラエティ番組であまり見かけないし、やはり漫才師よりは格のようなものを感じるし、新作落語で若手が口演していたとしても、伝統の継承を感じる。「笑い」を楽しむ大眾側の視點ではなく、「笑い」を提供する演者側に目を向けると、伝統的所作・日本語の構成の美しさや面白さ、言葉の繊細さなど、消化して表現することの難しさを再認識させられるのではないだろうか。

筆者には噺家になろうと勧誘する意図は毛頭ないが、母國語や母國の文化を理解する別の方法として、落語をじっくり聴いてみるのも乙なものではないだろうか。

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